公共空間に、「アニュラスのじゃぶじゃぶ池/omnium-gatherm」的なものを取り戻す——「DOUBLE ANNUAL 2025」プレビュー展(山形)レビュー/小金沢智(美術科 日本画コース 専任講師)
レポート
#DOUBLE ANNUAL#教職員#日本画#美術科
上記写真左から)出展作家:鈴木藤成、小金沢智 専任講師
2024年12月12日(木)に開催されたトークイベント「ギャザラムトーク」の様子
はじめに
このたび、国立新美術館で2025年2月22日から3月2日まで開催されるDOUBLE ANNUAL2025「アニュラスのじゃぶじゃぶ池/omnium-gatherm」は、京都芸術大学とその姉妹校である本学=東北芸術工科大学の学部生?院生を対象とする学内選抜展である。
2022年度から実施されているDOUBLE ANNUAL(以下、DA)は、2022年度と2023年度は、監修を片岡真実、ディレクションを金澤韻、服部浩之が担当し、「反応微熱―これからを生きるちから―」(2022年度/出展作家:[京都芸術大学]Giannis Aristotelous、rajiogoogoo 、井本駿、趙彤陽、中川桃子、服部亜美、[東北芸術工科大学]tag 、鈴木藤成、添田賢刀、髙橋侑子、卍会プラス)、「瓢箪から駒 ―ちぐはぐさの創造性」(2023年度/出展作家:[京都芸術大学]Giannis Aristotelous、rajiogoogoo 、井本駿、趙彤陽、中川桃子、服部亜美、[東北芸術工科大学]横田勇吾、森田翔稀、杜鞠、木村晃子、菊地那奈)と、ともに国立新美術館で行われてきた。
いずれも、募集要項の段階でディレクターからテーマが出され、出品を希望する学生は、テーマに対するプランをポートフォリオとともに提出。それら書類による一次選考を通過すると、プレゼンテーションによる二次選考があり、最終的に、10組前後の学生が選出されている。
そして、今回も同じく国立新美術館で開催される「アニュラスのじゃぶじゃぶ池/omnium-gatherm」は、片岡真実による監修は継続しながら、ディレクションを堤拓也と慶野結香の両名が担う新体制となって、京都芸術大学からは張子宜、Dbl.RT FW、菱木晴大、Itsushi Group、小坂美鈴、ヴィオラ?ニコラスの6組、東北芸術工科大学からは栗原巳侑、Modern Angels、篠優輝、鈴木藤成、Yatsude Junの5組、合計11組の展覧会として開催される。
「アニュラスのじゃぶじゃぶ池/omnium-gatherm」という、この一読して不可思議な言葉——テーマ/タイトルについて、堤と慶野はこう述べている。
今回の方向性を示すテーマおよび展覧会タイトルとして、「アニュラスのじゃぶじゃぶ池/omnium-gatherm」を設定しました。完全には対応していない日英タイトルですが、ラテン語で有機的な「輪」や「環」を示す「アニュラス」と、公園にある浅い水遊び場である「じゃぶじゃぶ池」、そして混合物、寄せ集め、まぜこぜなどを意味する「omnium-gatherm(オムニウム?ギャザラム)」は、無限の可能性にひらかれた円環状の公共空間に、様々な表現や考え方を持っている人々が集い、混ざり合いながら戯れるイメージをもって名づけられました。
堤拓也?慶野結香「アニュラスのじゃぶじゃぶ池/omnium-gatherm」によせて
ここでディレクターの二人が、「公園にある浅い水場」としての「公共空間」を、「無限の可能性にひらかれた」場として捉えている点が私には興味深い。なぜなら、今日の日本の公共空間としての公園では、座ることはできるものの長時間の休憩や寝転がったりすることは難しいつくりの椅子が設置されていたりする。建築史家の五十嵐太郎が「排除アート」という言葉を用いてその不寛容性を指摘しているように、公共空間はその可能性をむしろ狭めているのが実態である。後に続く、「分断の行方は見通せず、戦禍はひろがり続け、価値観の対立は人々の連帯を困難にしています」というディレクターのステイトメントにも、その問題意識があらわれているのではないか。
そう、現在の私(たち)にとって「公園」的な場所(公共空間)は、「様々な表現や考え方を持っている人々が集い、混ざり合いながら戯れる」ことの困難な場所として、存在している。ならば、このテーマを通してディレクターから作家たちに問われている(問われていた)のは、その上で何がなせるのか、ということではなかったか。あるいはこう言ってもいいのかもしれない。私たちは、「無限の可能性」が閉じられつつある「公共の空間」を、「アニュラスのじゃぶじゃぶ池/omnium-gatherm」として取り戻すことができるのだろうか? これは、出品作家にかぎらず、「公共」の「住民」としての私(たち)に問われているものでもあるだろう。あなたは、「公共」をどう考えるのか? とうてい、すぐ答えることのできる問いでもない。
さて、DAは、毎回、国立新美術館での展覧会に先立って、途中経過の成果発表を「プレビュー展」という位置付けで各大学で行っている。本稿は、2024年12月10日から20日まで本学にて開催された模様を、教員であり、キュレーターとして活動している私の視点から、レビューとしてお届けするものだ。国立新美術館での開催まで約2ヶ月という差し迫った段階で、どのような作品がプレビュー展で発表されたのだろうか。
プレビュー展会場は、東北芸術工科大学本館7階のTHE TOPと名づけられているギャラリーである。そこは、キューブ(四角形)とは言い難い、凹の形をした、幅のある通路が展開するような特殊な空間だ。国立新美術館の展示室とは、天井高や、仮設壁面を建てるなどの展示の自由度という点で、ずいぶん違う。つまり、出品学生たちは、まるで違う空間?環境?状況で、途中経過をシミュレーションした。そのことも踏まえながら、本稿をご一読いただきたい。
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Modern Angels《いきあたりばったりキャンプ》
エレベーターで7階まで上がっていき、降りてから、凹の正面向かって左へと足を進めると、芸術学部美術科洋画コース 3年の榮村莉玖、荒井佳能、そして、彫刻コース4年の早坂至温によるModern Angels(以下、MA)の作品が、大掛かりなしつらえによって展開されている。
「いきること?さまざまなものにあたること?ばったりとでくわすこと」をコンセプトに、「いき あたり ばったり」をテーマに活動してきたMAの結成は、2022年5月にさかのぼる。自作の年表に記載されていた通り、そのきっかけこそ、DAの第1回として開催された「反応微熱―これからを生きるちから―」だった。年表には、2022年5月17日、「「Modern Angels」7人でスタート」とある。当時学部1年の榮村が、DA出品を目指して結成されたのがDAであり、第1回?第2回ともに最終選考で選外となったMAは、活動を通してメンバーを減らしながらも、今回、3度目で念願の選抜を果たした。
作品《いきあたりばったりキャンプ》(2024年)は、これまでMAが各地で行ってきたプロジェクトを「衣?食?住」の3つのカテゴリーに分類し、インスタレーションとして展開したものである。写真?映像を主なメディアとして用いながら、プロジェクトを行った場所を象徴する物品を併せて使用している。「いざ、野の島へ」(2024年9月10日/宮城県塩竈市)、「0円芸術祭 山形トリエンナーレ2024」(2024年6月18日?25日/山形県山形市)、「SUPER HIPPY」(2024年9月8日/東京都)、「いきあたりばったりキャンプ」(2024年5月5日/宮城県)、「標高千メートルで千の風になって」(2024年9月25日/御釜)、「みんなでケ????芋煮神輿」(2024年10月20日/京都府)、「SUPER WOODSTOCK Fes!!!!」(2024年9月28日/滋賀県)、「SUBMARINE RESEACH」(2024年/宮城県川崎町、東京都)、「私たちは反り立つ肉を越えられるか」(2024年9月2日、11日/宮城県仙台市)(*1)の9つのプロジェクトがあり、それらから私が感じたのは、まさしく、MAのコンセプトである「いき あたり ばったり」であると同時に、そのコンセプトが、制作にあたっての大義の不在とも言い換えられるのではないかということだった。
つまり、「アート」には、昨今の社会問題?課題に対するアクションをはじめとする大義が求められる場合がしばしばある。たとえば、アジア?太平洋戦争中、日本の画家が軍部から求められて描いた戦争画はその象徴として考えることができると思うし、2011年の東日本大震災後、被災地でのアートによる復興を目的としたプロジェクトも、その側面が認められる。「誰のために、何のために、つくるのか?」ということ。そういった大義の有無は、一概にその良し悪しを論じることのできる簡単なものではないが、MAの活動を作品を通して見ながら面白いと思ったのは、MAの、そのあっけらかんとした大義のなさだった。
たとえば、「私たちは反り立つ肉を越えられるか」は、荒井の自宅最寄りの焼肉屋の看板メニューである「反り立つ」「巨大豚肉」をレジンで残すビデオインスタレーションである。映像には、MAが和気あいあいと焼肉を食べるシーンが映り、またその映像の傍には、レジンで固められた「巨大豚肉」がある。作品に対して、「これを機に行こうと決意した」という解説文がよい。「これ」とはDAであり、DAを機に、行ったことのない焼肉屋へ行って、それを作品にしようという魂胆。コレクティヴ結成の動機がDAの開催であったことから考えれば、自然なことであると言える。もともと、活動の大義はない。しかし、何かはしたい。そんな自分(たち)を焚き付けるものがDAだった。そう見える。
しかし、その過程で、MAは多くの人たちに出会い、関わる。SUPER WOODSTOCK Fes!!!!」であれば、ディレクターの堤がプログラムディレクターを務める山中suplexにて滞在制作し、「Woodstock Music and Art Festival」を「現代的に再解釈」してライブを行ったのち、同日行われていた国際共同調査?シンポジウム「みんなで土をラーンする」のプログラムディレクター?池田佳穂の誕生日を祝うパフォーマンスをしたという。映像に映し出されたその模様は、実に多幸的だった。「いき あたり ばったり」の結果、自分たちだけにかぎらない他者との関わりをつくり出している。どこまで計算しているのかはわからない。していないようにも見える。けれどもそのなかで、どうにか作品をつくろうとしていることも感じられる。そこが面白い。
MAの「Angel」(天使)とは、「クリミアの天使」とも言われたフローレンス?ナイチンゲール(1820?1910)から採られているという。展示の冒頭と終わりにある、これまでの活動の様子を写した膨大な数の写真によるインスタレーションからは、MAの自己言及的な側面が強くみられるが、「天使」がMAの由来であることを考慮すれば、その活動の根底に本来あるのは、自己というよりも他者へのケア、利他の精神なのではないか。だからこそその活動は、他者としての誰か?何かとでくわしてから、動き出す。私は、MAの「Angel」としての側面に注目したい。今日における「Angel」とはどのような存在なのだろうか?(*2)
鈴木藤成《ローカルレジリエンス》
MAの展示が終わると、その先の天井からは、大きなブルーシートがぶら下がっている。鈴木藤成の作品《ローカルレジリエンス》(2024年)である。現在、大学院芸術文化専攻複合芸術領域修士課程2年在学中の鈴木藤成は、DA第1回の「反応微熱―これからを生きるちから―」(2023年)に続き、今回が2度目のDA参加だ。第1回当時、鈴木は日本画コース4年に在籍し、卒業制作では、山形県出身の作家?浜田廣介『泣いた赤おに』(1935年)の物語構造に「作者である“私”と“現代日本社会”を当てはめ」(鈴木のステイトメントより)て制作した絵画作品《藤成》(2023年)を発表しながら、DAでも『泣いた赤鬼』の物語構造を援用しつつ、しかし支持体にブルーシートを用いた作品《僕と鬼の云々》(2023年)を発表。2点の作品のビジュアルは、ともすれば同じ作家のものと見えないかもしれない。しかし、いずれの作品も、山形県米沢市に生まれ育ち、集落の神社を代々管理し、後世に引き続く役割を担っている鈴木の「家」、そして少子高齢化が顕著で限界集落とも言える「地域」、その環境?状況における若き当事者としての鈴木のリアリティ、切実さ、切迫さが投影されたものだった。この頃から、鈴木は自身の立つ/立たざるをえない環境?状況を象徴する素材でありモチーフとして、ブルーシートを作品制作に用いていくようになる。
ただし、本展でぶら下がっているブルーシート3点は、作品として何か加工が施されているわけではない。経年変化や使途によって、破れていたり、擦れているといったそのもの自体の痛み具合は異なるものの、吊り下げられているだけだ。その様子は、結界のように、何かを守っているようにも見えるし、あるいは、何かを拒んでいるようにも見える。そういう両義性がこのインスタレーションにはある、と一見思わせる。
そして、ブルーシートから回り込むようにしてその内側に入っていくと、3点のブルーシートをモチーフとしている絵画が展示されている。そう、この3点の絵画は、3点のブルーシートと対応し、絵画には隣り合うようにブルーシートの調書とでも呼ぶことのできる情報がファイリングされ、展示されている。調書は、「採取日」「ブルーシートの仔細」「ブルーシート採集場所」「採集場所の歴史」から構成され、たとえば、《採取ブルーシート3》には、「シートは濃い青色で、角や端の方に大きめの穴がいくつか空いている。薄手のもので、ほとんど褪色している様子はない」(「ブルーシートの仔細」)、「管理者に聞くところ、獣避けのために使用したものを長らく堂内に放置していたという。お堂の補強財の下敷きになっていたところを引っ張り出した」(「ブルーシート採集場所」)などとある。工事現場、農業現場、災害現場、花見?キャンプをはじめとする屋外レジャーなどで主に使われている合成樹脂製のブルーシートは、そうして鈴木によって調査され、絵画のモチーフとして制作されることで、どこにでもあって、日常的に見かける匿名的な存在というより、唯一無二の存在として立ち現れている。
くわえて、「結界」のさらに先の会場には、鈴木がブルーシートを採取する様子が収められた映像や、鈴木が農村部での今後の展望を計る「地域計画」会議に参加した際の資料なども展示され、いわば当該地域における鈴木以外の当事者の「声」に触れることができるようになっていた。ここで振り返ってみると、これまでの鈴木の作品は、本人の意識がどのようなものであったにせよ、そのイメージや語りは、鈴木自身の投影としての側面が強かったかもしれない。他方、今回の《ローカルレジリエンス》では、鈴木以外のさまざまな立場の「当事者」も登場する。映像では実際の姿や声として、または手書きのメモでは鈴木の文字を通して。絵画の画中にも、文字?言葉が描かれて/書かれていることにも注目する必要があるだろう。(*3)
鈴木の作品は、私(たち)のいる場所を、行ったり来たりさせる。両義性があると書いたが、両義性ではない。絵画は、それが「どこ」ということを特定させるわけではない絵画空間でありながら、ブルーシートは、そのものがかつてあったのかもしれない固有の場所へと想像を誘い、映像?資料は、具体的な場所へと私(たち)を手招く。これら作品の総体は、多方向に開かれた孔のようだ。その孔を見つめるあなたのまなざし、いる場所が、鈴木から問われていると思わせる。
篠優輝《こけしの旅》
鈴木の展示を経て、凹の下部から反時計回りに回っていくと、篠優輝の作品がある。大学院芸術文化専攻絵画領域修士過程1年在学中の篠の作品は、こけしをモチーフ?主題にしている。2023年度東北芸術工科大学卒業/修了研究?制作展でも、当時洋画コースに所属していた篠がこけしを題材にした作品を制作していたことが、私には印象に残っている。卒業制作《渾々こけし 現代之図》(2024年)が、幕末から明治時代にかけて活躍した浮世絵師?月岡芳年(1839?1892)の源義経と武蔵坊弁慶が出会う場面を描いた《義経記五條橋之図》の図像を引用していたことや、そして、篠が卒展のトークイベントでゲストの美術史家?山下裕二から作品について問われる中、こけしの関係者に怒られたことがあるというエピソードを話していたこと。こけしを描く資格を問われるようなその楽屋話は、鈴木の作品が言及している当事者性とも関わることかもしれない。人は、何をもってそれを表現していいと許されるのだろうか? そもそも、誰かに許されなければ表現はしてはならないのだろうか?
今回、篠のきわめて大きなサイズの絵画作品は、まだまだこれから描かれる途中といった未完の状態で、しかし、その構想の全体は描かれつつあった。《こけしの旅》(2024年)と名づけられていたその作品で、モチーフの中心になっているのはこけしではない。こけしそのものも描かれている(描かれようとしている)ものの、いく人かの人物が並んでいる。こけし工人と呼ばれる職人の姿だろうか。あるいは、こけしの蒐集家や販売員だろうか。はたまた別の存在であろうか。篠は、こけしそのもの以外にも、その周辺?周縁を見つめながら、こけしをめぐる状況を浮き彫りにしようとしているように思える。それは、絵画と対面する壁面に、篠がこれまで行ってきたこけしのリサーチの資料(複写)が大量に貼り付けられていることからも見て取れるだろう。
すなわちこけしの受容史である。昨年、東京国立近代美術館で開催された「ハニワと土偶の近代」展は、ハニワと土偶の造形を論じるのではなく、そのイメージに対して人々からどのような視線が注がれ、これまで受容されてきたのか、いわばハニワと土偶をめぐる人々の欲望の変遷をたどるものだった。アート?プラクティショナーの松本妃加(文化財保存修復学科 3年)による本作の作品解説には、「こけしに関するフィールドワークから篠が捉えた「こけし伝統」のアクチュアリティから、その文化を支える環境や人々の営みを掘り下げ、絵画として視覚化する」とある。問われているのは、こけしの「伝統」とはどのように作り出されてきたのか、ということでもあるだろう。芸術家?岡本太郎(1911-1996)はその著書『日本の伝統』(1956年)で、伝統とは創造である、という主張を徹底した。古来のものを、変えず、疑わず、崇め奉ることが伝統ではない。むしろ、今を生きる人間の見方や感じ方を通して、新しく捉え直すことこそ、されなければならならないと。こけしの伝統にも、長い時間をかけて多くの人々がこけしに注いできた視線の痕跡がある(あった)はずだ。こけしという存在は、何を欲望されてきたのか。今、何を欲望されているのか。その上で、篠はこけしに何を見出しているのか。その視線のありようを私は知りたいと思う。
Yatsude Jun《馬の背》
そろそろ会場を一回りしようとするなか、壁面にぽつぽつと立体が展示され、その対面には映像がプロジェクションされている。立体は、人のような、動物のような、馬のような、神仏のような、しかしこれと明確に示されない異形の存在が見て取れ、それらは木製のトレーに対して、ほぼ左右対称で配置されている。篠によるこけしとは対照的に、広く認知されているイメージのようには思われない。ただ、その造形の「素朴さ」——これも注意が必要な形容だが——という点で、プリミティヴ?アートを私に想起させる。
プロジェクションされているのは、実写とクレイアニメーションが組み合わされている映像作品だ。本来、クレイアニメーション、朗読劇、歌劇を融合させた約20分の作品であるというが、本展で展示されているのはその一部を編集した約1分のティザー映像で、実写では、お面をかぶった人物が椅子に座って杖のようなものを振り回したり、弓を引くようなそぶりをしたと思えば、クレイアニメーションでは、木々や水、人らしきイメージが登場し、それらが入れ替わり立ち替わり展開していく。その展開のありようは、少なくとも今回の映像においては、チグハグさがあり、ぎこちないようにすら思える。
だが、立体、映像と見ていくと、これらの作品において希求されているのはむしろ、技巧的な意味でのうまさではないものの捉え方であり、速さよりも遅さ、滑らかさよりもぎこちなさ、そういった現代の社会から見過ごされているものの積極的な受容であるのかもしれない。
《馬の背》(2024年)と題されたYatsude Junによる本作は、松本妃加による解説を引くと、「作品はパペット3体を軸に、人間を操る能力を持つ「馬」とそれに関わる人々を描いた物語である。そして砂漠やオアシス、馬に対する支配構造といった要素は、人間の関係性や社会構造を象徴しており、物語全体が普遍的かつ現代的な教訓を含んでいる」という。さらに、「Yatsude Junは「怒り」、「悲哀」、「祈り」を軸とし、周縁化された人々の立場から社会へプロテスとする姿勢をもとに、近年では同一の登場人物の設定を変えながら絵画や立体、インスタレーションなどをシリーズで制作している。平面上の限られた表現では、物語の全体像や背景を十分に伝えることが難しく、観客とのコミュニケーションに限界があると感じていた」とある。
昨今、不確実なもの、不可解なもの、曖昧なものを受容する能力として「ネガティブ?ケイパビリティ」という言葉が注目を集めている。イギリスの詩人であるジョン?キーツ(1795?1821)が提唱した概念である。作品や解説を通して、Yatsude Junの作品は、そういった概念が膾炙しつつある現代の社会状況を示しているのかもしれないと感じさせる。不確実なもの、不可解なもの、曖昧なものが切り捨てられ、確実で、わかりやすく、明瞭なものが求められるなか、人と人の分断が進んでいる。素朴で、ぎこちなく見える作品のイメージにこそ、Yatsude Junの意思が潜んでいると私は思いたいし、そこに、あるものとあるものとの支配構造を転倒させる可能性があるのではないかと期待したい。
栗原巳侑《Ghost of architecture》
篠の作品が展示されている空間から、連続するYatsude Jun、栗原巳侑の展示空間まで、床面に黒色のテープが貼られているのが気になっていた。ここでようやく、それが栗原の作品の一部であることに気づかされる。栗原による《Ghost of architecture》(2024年)は、DAの会場である国立新美術館が建てられる前、その土地に陸軍第一師団歩兵第三連隊兵舎が建てられていた歴史に注目、制作された絵画作品であり、この黒色のテープ——ラインは、兵舎の図面からその内部を原寸のスケールで表現したものだ。
港区総務部総務課『図説 港区の歴史』(港区、2022年)によると、陸軍第一師団歩兵第三連隊兵舎は、「実際の兵舎は昭和3年(1928)にこの地に建設され、地上3階、地下1階の4層構造。旧陸軍としては最初の鉄筋コンクリート造のモダンな兵舎でした。戦災をまぬかれ、アジア?太平洋戦争後は、「東京大学生産技術研究所」として平成13年(2001)まで利用され、国立新美術館、政策研究大学院大学建設のため解体されました。国立新美術館別館には兵舎の一部が保存」されているという。群馬に生まれ、福島で育った栗原は、この兵舎が関東大震災(1923年)後の震災復興建築であることにも注目し、そこに、2011年の東日本大震災とその復興も重ね合わせているようだ。過去と現在、災害と復興。したがって、「建築の亡霊」と名づけられた本作が可視化しようとするのは、ここに建っていた兵舎でありながら、それだけではなく、かつてのこの土地における今は不可視の生者?死者の存在でもある。したがって、作品の射程は、陸軍第一師団歩兵第三連隊兵舎——国立新美術館の関係に留まらない。たとえば、身近なところに目を向けてみると、1992年開学の本学が立つ山形県山形市上桜田の土地は、設立前、田畑が広がっていたという。かつてあったものと、今あるものとの間を想像すること。
そう、「間」だ。そこには空白?余白があり、はっきりとしたものはもう見えない。そのことを、栗原の《Ghost of architecture》は制作の手法を通して表出させている。栗原は本作で、俯瞰による当時の兵舎の全体図をベースとしながら、素材として美術館の敷地から採取した砂鉄を用い、描画素材として、そのイメージをドットの集合のようにして立ち上げている。その見え方は、四角いドットの集合(ピクセル)によるデジタル写真とは異なる、粒子の集合によるフィルム写真のようだとも言えるだろうか。もともとの全体図から大きく引き伸ばされ、多くの空白?余白をともなわせて立ち現れた《Ghost of architecture》は、自然と、私(たち)の視線をその「間」へと誘い込む。
国立新美術館の英語名称がART MUSEUMではなくART CENTERであることはともかくとして、美術館にかぎらずMUSEUM全般は、それこそ「公共空間」にほかならない。そして、私はそれが難しいことも理解しながら、MUSEUMが「無限の可能性に」できるかぎり開かれていて欲しいと切に願っているひとりである。陸軍第一師団歩兵第三連隊兵舎から東京大学生産技術研究所へ、そして国立新美術館へというこの土地に建っていた建築の歴史は、ある土地が公共化していくこととも捉えられるし、その上で《Ghost of architecture》を通して陸軍第一師団歩兵第三連隊兵舎を想像するということは、公共とは何かという問いも内包しているように思えてくる。不可視の「(建築の)幽霊」を可視化させる栗原の作品?その過程が、生者としての私(たち)の営みを問うわけだ。私(たち)はそのことに、どう応答することができるだろうか?
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終わりに
現時点ですべての作品が必ずしも完成しておらず、これからさらなる検討が期待される中、DAのプレビュー展について、全体テーマである「アニュラスのじゃぶじゃぶ池/omnium-gatherm」を前提としながら、5組の作品を概観した。作家の意図と異なる著述も含まれているかもしれないが、それぞれの視点を通して表現された、人?土地?歴史?環境?状況などとの「混ざり合い」が見て取れたと思う。国立新美術館では、本学の5組に加え、京都芸術大学の6組も加わって、合計11組による「アニュラスのじゃぶじゃぶ池/omnium-gatherm」が展開される。そこが開かれた場であるためには、観客である私(たち)自身も、「開かれた場」とは何かと自問する必要があるだろう。私(たち)は、展覧会を通し、どのような「戯れ」ができるだろうか?
*1
日時、場所はMA自身によるクレジット及び解説文から抜粋した。
*2
本記事公開にあたって、ここでの「天使」とは、フローレンス?ナイチンゲールであるにも関わらず、ヘレン?ケラーと誤記をしていました。Modern Angels及び既に読まれた方々にお詫び申し上げます。
(2025年1月30日18時15分)
*3
その意図については、会期中の2024年12月19日に開催された「ギャザラムトーク」で鈴木自身が語っているため参照されたい。当日は、Modern Angelsの荒井、榮村、そして鈴木、栗原巳侑の順で、3組と小金沢との対話が行われた。
https://www.instagram.com/p/DDwTF-3BB3i/
(文:小金沢智、写真:草彅裕)
Information
DOUBLE ANNUAL2025「アニュラスのじゃぶじゃぶ池/omnium-gatherm」
会期:2025年2月22日(土)~3月2日(日)10:00~18:00 入場無料
※休館日2月25日(火) 、最終日の観覧締切時間は17:30会場:国立新美術館3F 展示室3A(東京都港区六本木7丁目22-2)
主催:京都芸術大学
協力:東北芸術工科大学
関連動画:
【東北芸術工科大学】2025.01.17「週刊 TUAD NEWS」 DOUBLE ANNUAL 2025 SP
小金沢 智(こがねざわ?さとし)
東北芸術工科大学芸術学部美術科日本画コース専任講師。
キュレーター。1982年、群馬県生まれ。2008年、明治学院大学大学院文学研究科芸術学専攻博士前期課程修了。専門は日本近現代美術史、キュレーション。世田谷美術館(2010-2015)、太田市美術館?図書館(2015-2020)の学芸員を経て現職。
「現在」の表現をベースに据えながら、ジャンルや歴史を横断するキュレーションによって、表現の生まれる土地や時代を展覧会という場を通して視覚化することを試みている。
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